私のような一般大衆は諸行無常なのである

行く河の流れるごとく

 

 

今や、メディアこそが「世界」なのだろう。これが大いなる誤解の種であるということになぜ気がつかないのか。メディアの人間がよくいうことの一つに、送り手と受け手があって、それでこそメディアは成り立っているというのがあって、愚かな受け手の私は、いつも疑問に思っていた。

本当に送り手と受け手だけなのか?

表現としての言葉なんていうものは、発信された時点から固定化されてしまうということをなぜ言わないのか。知っていて知らんぷりをしているのなら、黙っているのはよくない。受け手の状況は変化しているということをふまえていただきたいと心底思うからである。記録された言葉は固定化されてしまう。録画したら永遠に残る。BRDに残して後で楽しもうという爺だっているのだ。ここに。

だからメディアには慎重に報道をしていただきたいと思う。

影響力は大きい。私のように、全部が全部真実を報道していると思って見ている(聞いている)田舎爺もいるのである。素直だからだ。メディアがいうのだからという姿勢である。天気予報だって、天下のエリート集団であるNHKがいうのだから、晴れは晴れ、雨は雨というようにバカ爺は思ってしまうのである。だから、少しは私のような一般大衆のためを思って欲しいものだと感じるのである。

と、ここまでは書き出し。

本題は、これから入る。

昨日、居住地の古文書講座に行った。土佐日記を、影印本で読まされた。まったく実力のない私は往生した。国文学の実力を試すには影印本が一番いい。読めるか、読めないかの二つしかない。読めなかったら、努力するしかない。

それだけである。

以上終わり。

あ、それではあんまりだから、もうちょっと書かせていただく。しばらくおつきあいを。忙しい方は、ここで打ち切ってトイレでも行かれるがいい。

土佐日記を読んでいて、Amazonから古本の土佐日記を買ったのである。講師の先生がお使いになっておられたからである。なんと、値段が14円。年金生活者には実に快適な世の中になった。小学館の分厚い本である。私は岩波書店の大ファンで、古典系はこれでしか読まない。だから、小学館の古典系は買わなかった。なぜなら、小学館は三段に頁が分かれていて、上に注、真ん中が原文、一番下になんと訳がついているのである。矜持として、そんな本は買わなかった。まだケツの青い、学部生時代のことである。岩波も、小学館も古典系は高かったし、苦学していた私には、実に痛い出費であった。だから、質の高い岩波系を買って喜んでいたのである。

学部生時代の友達たちも、そういうのが多かった。(ちなみに現在の在籍大学ではない)殆ど岩波書店を買っていた。でないと軽蔑されるからである。懐かしいもんである。今でも、年賀状くらいはやりとりしている。みんな還暦を過ぎてしまったけど。

それで、昨日は土佐日記ではなくて、平家物語方丈記を紐解いてみたのである。書庫にあるから、なんとなく眼がいったのだ。そして読みふけってしまった。気がついたら真夜中を回っていた。こうやって机にしがみついてばかりいるから病気になるのは、わかっているのだけれども、止められない。これで(国語国文学)で飯を食ってきたのだし、今更平家物語方丈記ではないだろうと笑われるが、なに、まだまだである。まだまだ知らないことが多すぎる。

有名な「行く河の流れるごとく」ということが、平家物語方丈記には散見される。

このことがしみじみ分かるようになってきたと思ったのである。

退職して、まる3年になろうとしている。自分の価値観が大きく変わった。以前はとらわれていたことが、今はまったくとらわれない心境になってきた。変わった自分は、以前の自分を覚えていないのである。これは不思議なくらいである。そしてこれからの自分も予測不能である。

一番は、私がいつ死ぬかということであるが、今日・明日ではたまらない。もうちょっと生きていたい。しかし、それも行く河の流れるごとくどうなるやらわかったもんじゃない。

そういうことである。平家物語鴨長明も、よく知っていたのである。ものごとありようを。本質を。

諸行は無常であるということをである。

 

冒頭に返る。

つまり、私のような一般大衆は諸行無常なのである。河の流れのように、常時変化している。一箇所にとどまらない。流れ流れて、どっかに行ってしまう。

その河を、山の上から眺めてせせら笑っているのが、メディアなのかなぁ~と思った次第である。更に付け加える。平家物語方丈記のように生き残れるのかなぁ~って。

 

じゃぁねぇ~。

 

(^_^)ノ””””