価値判断と真実は違って当然であろうが、そんなこともわかっていなかったのだ。恥ずかしいこと限りなし。

情報を知る、あるいは起きていることの価値判断をするってぇのは、アタマでやる。目でもやる。しかし、それが本当の意味で真実を認識しているのかとなると怪しいもんである。真の姿を知らないで、ワレワレ凡夫は判断しているのではないのかと気がついた。したがって、夫婦といえども価値判断は同一なのではない。親と子どももそうだ。いつも同じ方向をむいているのではない。方向も価値も判断もみんな違って当然である。

唯識のレポートを書いていてそう思ったのである。唯識は、難しい。五十代のころ法相宗の総本山興福寺にお参りして僧侶に質問したことがあった。マスターするのに何年かかりますか?って。そしたら真面目に答えてくださった。出家して最低でも八年と言われた。即刻断念した。できるわけない。ボキごとき凡夫に。

NHKの宗教の時間に出ていらした横山紘一先生に質問したこともあった。現在在籍している通信制大学院の正門の前で、先生と一緒に日本酒を呑んでいたときのことである。もう、ボキはかなり酩酊していた。まだ五十代であった。学会のセミナーがあって、先生の講義を受講していたからであった。しかし、会話の内容は覚えていた。それからが無明の世界へのスタートであった。唯識と能というテーマで、ドクターになりたいという大それた希望をもっちまったからだ。

なれなかったけどねぇ。能力もなかったし、その代わりに病気になっちまったし。

甲羅に似せて生きればよかったのである。あまりにもムリしすぎた。

なにを考えていたのだろうと、いつも(_ _ )/ハンセイばかりしている。

それにしても話にならない。安易な方向にばかり行ってしまう。これが大型オートバイに乗っているときは、そうでもなかったのだから笑ってしまうではないか。バイクはいい。全部テメェで考えて、一人、道をひた走るしかない。だいたいの道と方角を決めて、アクセルをひねるしかない。ケツも痛くなる。かえってその方が、生きている充実感があった。そういう時代、年齢だったのだ。

いつまでも若いと思っているわけではない。ただのジジイである。それなりにトシをとってきた。体力もない。


ま、良いか。

後はクソして寝るだけの生活だ。


わはっはっっははっははっははっはははっははっははっは。